2010年02月12日

あの頃

日本から買ってきた本の中のセリフにこんなのがあった。

「あの頃の1年てえのは、10年も付き合ったようなもんだ」


...なんか、いろいろ考えた。

20代の時、添乗員をしていた。
たかが数年だった。
日雇いの不安定な仕事。「水商売みたいなもん」「使い捨てだし」...
そんなやさぐれた言葉でしか表現できない仕事。
ツアーがなかったら無職。はっきり言ってロクな商売じゃない。
たかが数年やっただけで、何をわざわざ昔の話をするのかと思うだろう。
でも、私にとってはあの頃が、本当にたかが数年ではあったけれど、
人生の中でいろいろな経験をするためのものすごい長い期間に感じ、
それだけに今でも「あの頃は...」と回想することばかり。

以前住んでいた国は、たった1年しかいなかった。
でもその時のこともやはりかけがえのないもので、
他人からしたら「...で?」って程度だろうけれど、
私にはあの国で経験した全てが、あの時に出来る精一杯だった。

そういう「あの頃の1年」と、
イスラエルに来てから振り返ってみるこの10年、
重みがぜんぜん違う。
思い出すことが多いからそう感じるだけとは思えない。

毎日があっという間に過ぎる。気が付くといつも週末。
何をしたかという記憶も残らない。毎日同じことを繰り返す。
この10年、何やってんだかと思ったりもする。

この「成れの果て」を見たら、あの頃の人達はどう思うだろうか。
    
◎今日の一曲
   
posted by Heshbonit at 21:00| ノスタルジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月28日

今は昔

邦人のX氏が4年前に日本で買ったデジカメが上手く撮影できないそうで、ネットで調べたら、その機種はリコールしているらしい。
まさかリコールをどうこうしてもらうために日本に行ってられないし、仕方ないこっちで適当なのを買うしかない、コンパクト系ではないきちんとしたデジカメなのに、とぼやいていた。

デジカメ。私のは7年前に日本で買ったこんなの。



ヨドバシでノートタイプPCを買ったら、店員に「これだけポイントがあったら少し足したらデジカメが手に入りますよ」と勧められ、デジカメ買う気はなかったのに言われるがままにデジカメ売り場に行き、「初デジカメなら、コレかコレかコレ」と店員が勧めてくれた3台の中から選んだ。
選んだ理由は普通の単三電池で使えるものだったから(残り2つは充電式)。

当時は発売間もない最新モデルだったものの、近年の機種に比べたらすごく厚みはあるし、液晶パネルはすごく小さいし、起動するまでかなり時間がかかる。
寿命はまだまだ続きそうだけれど、そろそろ買い換えたいなとは思いつつ、そのままダラダラ使っている。ま、個人の記録程度に撮るだけだから、画像がどうとか機能がどうとか、関係ないし。

初めてデジカメというものを見たのは、派遣で車の会社で働いていた時だった。「撮った写真をメールで送れる」と聞いて、なんかものすごくすごいものだと思ったが、今の時代じゃそれが携帯電話で出来るんだから、時代が進むのってマジで早い。(って、私の携帯には写真機能がないが...)。
子供の時は「写真を撮る」っていうのはすごく特別で重要なことで、「うわー、写真だってさ、写真写真、撮ってもらおうよ!」ってすごいことだった。カメラ屋にフィルムを持って行って現像してもらって...。
でも今じゃ誰でも撮ってその場ですぐに見られて簡単に印刷もできる。
なんか、世の中進みすぎじゃないかと、オバサンは思ったりする。

電話にしてもそう。
私が学生の頃、ようやくポケベルが走り出したころで、遊び仲間がポケベルを持っているのを「なんかすげー」って目で見ていたりしていた。
実家暮らしだったから電話が玄関にあり、冬はめちゃめちゃ寒いし夜中に話していると親から言われるんで、バイト代で家用にコードレス電話を買った。コードレス発売間もない頃だったから結構しました。
友達には夜10時以降にかけてと頼み、その時間帯以降はコードレスを肌身離さず持ち、電話が鳴るとワンコールで取る。それでも家に音が響くから翌朝また親に言われる。兄が2人いるから彼らの友達がかけてくることも頻繁で、電話の取り合いになることもあった。
「自分専用の電話線を引きたい」って本当に思ってたものです。
でも、その不便さがよかったな、って今だから思う。

実際、携帯電話なんてなくても、添乗員やってましたし。
一度だけ、とあるVIPご一行の添乗で、帰りの新幹線に大幅遅れが出た時、会社の担当者に連絡したくても新幹線内の公衆電話も長蛇の列でどうにも出来ず、あー、携帯電話があればって思った、そのくらい。
その後も結局、日本を出てくるまで(10年前まで)、携帯は持っていなかった。必要性が全く感じられなかったから。あ、携帯の店頭契約のバイトはしました。「便利ですよ、イマドキ携帯は必須ですから」と言って。
今は、かけることもかかってくることもほぼなくかけてくる人もなく、万が一の時に繋がる保険みたいなものです。なきゃないでそれほど困らないっていえば困らない。全く使わないので基本料金(月650円)しか払ってない。


X氏:「海底ケーブルだった昔は、仕事の連絡はテレックス。日本に直接電話をかけるのにも何を話すか用件をまとめて、それでも時々声が聞こえなくなったり、上手く伝わらなかったり、いきなり切れたり。本当に大変だった」
:「15年前でも電話事情はそうでしたよ。日本に電話すると、電話の向こうで能天気に『ねー、今そっち何時〜?』なんて言われて、時差X時間って何度も何度も言ってるでしょ。電話料金高いんだから、下らない質問に時間を割かないで!って手紙に書いて(笑)」
X氏:「今ではネットでいくらでも新聞が読めるけど、その昔は日本の新聞や週刊誌が手に入ったら、記事だけではなく、小さな広告から何からくまなく読んで、なかなか捨てられなかったものですしね。TVで日本の映画をやるなんて言ったら、古くて下らない映画でも必死に見ましたよ」

国際電話料金はものすごく安いし、ネットで新聞が読めて、ネットで日本のTVをリアルタイムに近いくらいでタダで見られて。
ホント、海外生活もラクになったものです。

あ、カメラの話だった。
どうせ今買っても、またすぐに古くなるだろうし、使い切ります。 
        
posted by Heshbonit at 20:00| ノスタルジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月20日

生まれて初めて

さて、今日は嬉しかった話です。

なんと奇しくも今日のブログペットのお題がこれでした。

◆◆◆ ブログペット デイリーメール ◆◆◆
                      
Heshbonitさん こんにちは! 
BlogPetから最新のお知らせをお届けします。

・‥……… ♪今日のテーマ♪ ………‥・

今までで一番嬉しかったプレゼントは?



昨日、郵便小包が届きました。
何だろうとびっくりしながら中を開けてみたら...

本っ!!!
本は、本当に嬉しい。
食べ物は好みもあるし、消えたら悲しい。元々、雑誌の類は進んで読まない。それに比べたら、本は手元にずっと残りますからね。
しかもこの本は、販売直後から超ベストセラーだという新刊単行本ですよ。昔から中古の文庫本専門の私にしたら、本屋買いたての本なんて手が届かない。ページを開くと、「まだ誰も読んでませ〜ん」という贅沢感が漂います。


さて送ってくださったのが、これまたなんと、先日のジープツアーのVIPのお客様でした。予測しなかっただけに衝撃が強かったです。
途中で全員で写真を撮った時、「よく撮れていたら送りますよ」とおっしゃって下さったため、ご好意に甘えて住所は伝えたのですが、まさか写真と一緒に本も来るとは思いませんでした。

でも考えてみたら、休憩の時にこっちの生活の話になって、「食べ物は一通り手に入るし、情報はネットで手に入るけれど、やはり足りないものは本ですね」とか何とかいう話題をしたんです。
そうだ。言った。在留邦人の友人が殆どいないから本を貸し借りしあうことも出来ないし、とまで。こりゃ、ねだった発言になってしまってます。
あの程度のガイドで、新刊2冊はあまりにもボッタクリで申し訳ない。


思い出したことがあります。
添乗員時代、お客様からお礼の手紙なるものを貰ったことがなかった。
お客様から旅行代理店(添乗員あて)に、「楽しいツアーでした。添乗員さんにお世話になりました」というような手紙や写真が来ると、旅行代理店内の添乗員詰め所の連絡ボードに貼りだされる。
同僚にはそういうものが届くのに、私には一度も来ない。仕事の指名を受けることは何度あっても、やはり本人あてに礼状が来るというのとは違うんです。

添乗っていうのは仕事内容が見えないだけに、実際にお客様からお礼状を貰って初めて、「あの人、ちゃんとやってるんだな」という仕事ぶりが会社の人にも同僚にも伝わる。そういうのがあるんです。
焦れば焦るほど空回りして、スランプになってしまった。

ある日、新入りの頃から仲良くさせていただいていた超ベテランバスガイドと一緒になり、夕食の後に何となくそんな話をした。別に励ましてもらおうっていうんじゃなかったんですが、軽い愚痴を聞いてもらいたいという程度で。
すると、彼女が言った。

「懐かしいわねー。私ももう何年も、お礼状なんて貰ってないわ」

...。

お客様から帰宅後に評価をいただくことは最後までなかっただけに、本当にお客様を満足させていたかどうか、未だに分からない。
もしかしたら、ぜんぜんなっていないがためにそういうものが届かなかったのかもしれない。しかし、彼女の一言で、「自分が感謝されるための仕事」に走っていた自分を猛省した。


あれから10年以上経過した。
まさか、現役添乗員時代は一度も縁がなかったお礼状とプレゼントを頂くなんて、本当に考えもしないことでした。

感謝されるほどのことは何一つしていない。いえ、力不足で何も出来ませんでした。あまりにも拙く未熟で申し訳ないと反省することがたくさんあります。
お礼というよりもこれは、精進せよ、という有難い励ましと受け止めます。

こういうことがあると、やっぱ観光の仕事に戻りたくなる。
もうそういう年齢じゃないけど。
生きていくのが楽しくなりました。
本当にありがとうございました。またいつでもお越しください。

...返礼は手書きですよね。日本語書くのは久しぶりなんですが。
           
posted by Heshbonit at 22:00| ノスタルジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月30日

最初で最後

数ヶ月前に買ったプリンター、スキャンが出来るのを忘れていた。

で、スキャナーを初めて使ってみた。

9年前の写真。

Heshbonit
R100指定のHeshbonitと、愛犬わんこ。

メチャメチャかわいいでしょ、わんこ。
いろんな何かを掛け合わせたであろう、雑種(メス)。
座っているから分かりませんが、足が妙に短いんです。
拾った時、既に老犬で、1年半しか一緒にいられなかった。

絶対に吼えない、他の犬とは一切遊んだりしない、小型犬なのに他の犬から恐れられる、誰にも媚びないへつらわない、主人に逆らわないが服従もしない、車が大好き、注射を打たれてもビクともしない、家には入らない...という、性格だけは飼い主そっくりの強烈な犬でした。

一番ビックリしたのは、こいつが毒ヘビを追っ払った時です。

最期は、前日からなんかご飯食べないなぁ、と思っていたんですが、その後、半日苦しんだだけでした。お墓は村の某所に作ってあります。
命日になると夢に出てきたりします。

生まれて初めて飼った犬でした。
もう飼いません。
     
posted by Heshbonit at 12:00| Comment(10) | ノスタルジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月13日

モツ

ハマダ嬢のところで話にあった、モツ。
バブルがはじけた後に流行し、今では当たり前の食べ物ですよね。

しかし私にとっては、子供の頃から当たり前の食べ物でした。

以前、書きましたが、私が幼稚園の頃まで、両親は肉屋を経営していました。
それだけに、いわゆるモツ(臓物)は、我が家では当たり前の食べ物で、肉屋を閉店して父が別の仕事に就いた後でも、ずーっと普通に夕飯のおかずとして食卓に上っていました。

いわゆる動物のあらゆる内臓、一通り。モツ鍋のモツだけじゃないですよ。
第一、モツ鍋にしてもコテッチャンにしても、味が死んでます。殺してます。
モツの世界は、それぞれの特徴と奥深い味わいがあるのです。
今、ウィキで「モツ」って所を読んだけど、一通り食べてますね、普通に。
子供だった私には、「牛肉、豚肉、鶏肉、モツ」だと思っていた。
どの家も普通に食べているんだとばっかり思っていたんです。

小5の時、女子だけ体育館に集められて説明会がありました(よね?)。
その時、「レバーを食べましょう。レバーを食べられる人?」と先生が問いかけた時、パラッパラとしか手が挙がらなかった。
私も挙げなかった。だって、意味が分からなかったから。
私にしたら「鶏肉が食べられる人」というのと同じく当たり前な質問で、なぜ「食べられる・食べられない」と聞くのか不思議だったんです。
もし、「レバー大好きな人!」だったら元気よく手を挙げたでしょう。

あまりにも当たり前だから話題にすることもなく、そのまま成長。
添乗員になった頃、バスのドライバーと会話をしていて、ようやくそれが普通じゃないってことが発覚。大爆笑されましたね。「お前の家はなんなんだ?」って。

とまぁ、ハマダの話で、そんなことを思い出した次第。

皆さん、子供の頃の好物はなんでしたか?
 
私は、モツはモツで好きでしたが、一番は普通に鶏のからあげ。
それと、五目寿司といなり寿司。かんぴょう巻も好きでした。
特に、病気になるとかんぴょう巻を食べるのが大好きで。
なんかお粥っていかにも病人って感じでイヤだったんです。
あと、お菓子全般。今では甘いという味覚は全て受け付けませんが。
            
posted by Heshbonit at 23:00| ノスタルジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月10日

なわとび

今日はイスラエル総選挙のため休日です。
地方知事選は、永住権所有の外国人の私にも選挙権があるのですが、国政は当然ながら選挙権がなく、単なるラッキーなお休みの日。
というわけで1日ダラダラと家にいました。

某椅子人間の処で、スポーツせねばっていう話がありまして、私も何かしないとなーと思っていました。
自転車立ちこぎマシーンみたいなのはあって、1日15分〜20分はやるんですけど、毎日同じ動きじゃよくないんじゃないかと。
子供の頃は健康体ではなかったため、陸上系も球技もダメ、水泳もダメ。そんな私に出来るものはないのか、と思っていた矢先、これを見つけました。

なわとび。金壱拾謝克也

これなら私にでも出来るさ。なんでも、1時間で400kcalくらい消費するらしい。つまり、15分で100kcal。室内でも出来る。いいじゃん、これなら。

しかし昨日、買ってきて勇んで1分やって…、座り込んだ。
今日は「絶対にやってやる」と、Veohで大好きな寺島進のドラマを見ながら頑張ってみましたが、何度も休みながら計1000回。もう足が痛いのなんのって。
そりゃ、連続二重飛びは無理だっていうのは分かっていたけれど(それでも果敢に挑戦し失敗)、15分くらいならできると思ったんだけど。

そうさ、もう若くない。
シミもシワも増え、毛穴は全開ジャンジャンバリバリ大放出状態。
そして、生まれつきブチ茶髪だけど、髪全体の茶髪化が急加速し、やたらと金褐色の髪の毛が増えだした。これらすべてが白髪になるのはもう時間の問題だ。
本当に小汚いオバサンです。(注:小奇麗だった記憶もないが…)。

なわとび、懐かしいでしょ。
私が子供の頃は、冬の風物詩みたいなものでした。
業間休み(2時間目と3時間目の休み時間)に外に出て、皆でなわとびするのが普通だった。ほら、走ったり投げたりっていうのは上手下手が分かっちゃうけど、なわとびは個人差があんまりないから、好きだったんですよね。

今考えてみると、子供の体力ってすごいのね。

ちなみに、回っている縄には入れなかった。
中学の時、「クラス対抗なわとび大会」があって、「回っている中に何人は入れるか?」っていうのがありましたが、どうしても入れませんでした。
クラスの男子が、「Hesh、オレが行けって言ったら行くんだぞ」とか言うんだけど、理屈では分かっていても入れない。そんな鈍臭かった時代も今じゃ思い出。

今は強引に割り込みします。そして割り込みさせません。遅い車は煽ります。
 
posted by Heshbonit at 20:23| ノスタルジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月03日

父との思い出

よく母の話は書きますが、父の話を書いたことがないですね。

あんまり仲が良くないんです。
昔から、兄妹3人とも父とはほとんど仲良くない、というような状況で、一時帰国しても父とは全く会話もないです。
兄2人は昔からとても優秀でしっかりしていて、親孝行もしっかりしているんですが、残念ながらこの私がこんな残念な人生を送っていますから、兄妹の中でも失敗作の放浪ムスメとじゃ、口を利こうって気も起きないでしょう。
父との思い出っていうのは特にないです。

ふと思い出した父親との楽しい思い出。

13年位前、添乗員をしながら、小さな事務所で非常勤の経理をしていました。
事務所は自転車通勤でしたが、ある日の帰り、交通事故に遭いました。
私は遊歩道(歩行者&自転車)を走っていて、交差するように通っていた車道からきた車とぶつかった。交通事故って言っても、出会い頭にガンっていう程度。
向こうは一旦停止のラインで止まらなかったとはいえ、夕方で薄暗くなっていたから、どっちがどっちとも言えないけど、こういう場合は車の責任が重くなります。
こっちは倒れて、ヒザをぶつけて腕や脚を掠って、自転車がひん曲がったという程度で、救急車を呼ぶほどじゃない。
まぁ地元だし、その人の車ですぐ近くの病院(私が子供の頃からお世話になっている。家から徒歩5分)に行くことになりました。

さて、当時は携帯電話が稀少だったから、病院に着いてから家に電話して説明しました。電話に出たのは母だから、母が来るとばっかり思っておりました。
車の中でもレントゲンを待つ間も、オッサンの態度はメチャメチャでかく、示談にするとか何とか言って、警察にも電話しない。グダグダと、「お前が飛び出してきた」みたいなことばかり繰り返すてタバコプカプカ。
はじめは私も丁寧語で話をしていたけど、相手のふざけた態度にイライラしてきて地が出て、待合室でかなり派手な(堅気とは思えない)口ケンカに。

15分後。
病院の自動ドアが開いた。
ガラが悪いオッサンが入ってきたな、どこのオッサンだよ。
と思ったら、うちの父だった。

開口一番、父が言った。


「誰がやったのよ?」


キタ━━━(゚(゚∀(゚∀゚(☆∀☆)゚∀゚)∀゚)゚) ━━━!!!


私:「この人。示談にしたいんだってさ」
父:「ふーん、示談か。警察に電話してねぇのか」
男:「いやいやいやいや、警察に電話します、電話しますよ、今から」
私:「ウソじゃん。さっきからずーっと示談示談って大声で言ってたじゃん。そこらの人、皆に聞いてみようか?」
父:「おぅ、示談でいいよ、うちは」
男:「言ってません言ってません」
私:「一旦停止線で止まんなかったくせにさ、私が飛び出してきたとか、保険は使いたくないとかふざけたこと言ってんだよね。でも本人が示談にしたいって言うんだから、それで話、勧めていいんじゃないの?」

前にも書いたけど、うちの父、トラックの運転手(当時)。
仕事が終わって家に帰ってきてひと風呂浴びて晩酌しようとしたら、娘が車とぶつかって病院にいると聞き、駆けつけた次第。
その時のカッコは、半ズボンにペラペラシャツに雪駄履き。薄茶のサングラスで頭はボーズ頭。別にわざわざそういうカッコをしたのではなくこれが普段着。
オッサン、うちの父を見るなり吸っていたタバコを消し、打って変わってすっかり低姿勢。すぐに警察にも保険にも電話し、適切な処理となりました。
うちの父、全く普通の人です。
でもこの状況でこういうオッサンを前にして、「ええ、示談にしましょう」っていうツワモノはいないだろう。

話のポイントは示談云々じゃない。
1人娘が交通事故に遭って病院にいるって聞いたら、「どこをケガした?」って聞くだろうけど、いきなり、「誰がやったのよ?」はないだろうに。

そういうわけです。立派な兄2人は、鳶から鷹が生まれたってだけです。
私はちゃんと「蛙の子は蛙」として、小さい頃から親の夢を裏切りまくって育ちました。短気も仏頂面も協調性ゼロも、しっかり遺伝。

それから、イ国に来て運転免許を取りましたが、運転も父譲りです。

◎今日のしんちゃん
 
posted by Heshbonit at 20:00| ノスタルジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月02日

Memoirs of Fudebako

昨夜、机に向かっていた時、急に筆箱のことを考えた。
(真剣にやってないってバレバレです)。

筆箱。
今の時代だとどんなの使っているんだろう。もう筆箱とは言わないのかな。書くとカクカクしているけど名前そのものは柔らかくて好きです。

小学校入学時にどんな筆箱を使っていたか殆ど記憶にない。
ランドセルが赤いということすら気に食わなかった私だから、派手なキャラモノの筆箱を選んだとも思えず、たぶん1面開きのシンプルなのを使っていたんじゃないだろうか。年上の兄が2人いるせいか、1年生にして既に冷めているところがありました。
開閉部がマグネットで、蓋の裏に「時間割表」のが差し込めるラミネートポケットが付いているっていう普通のものでした。

私が小学校に入った頃から、筆箱の「開き面」が加熱していた。
上で「1面開き」って書いたのは、普通に上だけがパカって開閉するんですが、新入生で既に「両面開き」を持っている人が複数いました。

記憶にあるのは3年生の時。
途中転校してきた女子児童が持ってきたのは、「7面筆箱」!

7面、これがすごいんだ。
まずは表面から違う。「鉛筆入れ部分」と「消しゴム入れ部分」の2ヶ所で、これが裏表両面開く。さらに真ん中がパカっと割れて、そして左右それぞれが1面ずつ開く。そして「背」に当たるところがさらに開く。全7ヶ所の蓋が開く、ってわけ。
機能的にはどうなの?っていう代物なんですけどね。第一、筆箱にそんなにたくさん鉛筆やらペンやらを入れる必要なんてないはずだし。

でも、勉強に関係のない私物を持ってくることが出来ない小学校で、3年生くらいだとまだ服装も無頓着な状態だから、個々人のステイタスは持っている文房具で決まる。それだけに転校生が持っている7面開きの筆箱っていうのは、周囲を十分ビビらせる存在なんです。
今、オバサン世代になって考えてみれば、親の都合で転校を余儀なくされた子供に対して、「最新式の筆箱を買い与えて何とかしてご機嫌を取ろう」っていう、せめてもの親心だったのでしょう。
何よりも、「えー、すごーい! こんな筆箱持ってるんだ〜!」と、周囲の目を一瞬にして惹きつけ、クラスの友達を机の周りに呼び寄せることが出来る。非常に分かりやすい効果的な客寄せ方法。

しかしかかし。
小3児童には、転校生の不安な心や転勤族の哀愁なんてのはどうでもいいわけで、彼女の出現によって(って別に彼女が悪いわけじゃないが)、クラスの中で筆箱熱が急上昇したのはいうまでもありません。
ま、彼女が転校して来なくても、誰かしらが新しい筆箱を買ってもらって、「私もアレがほしい」ってことになったとは思いますけど。

どの児童も家に帰って、「筆箱買ってー」とねだりだした。
下敷きや定規なら単価が安いから年イチペースで買ってもらえるけれど、筆箱っていうのはそれなりにするし、簡単に買い換えるものじゃないんですよね。
ほとんどの児童が1年生から既に2年使っていて飽きている時期なだけに、「誕生日プレゼントで買ってもらった〜!」っていう人が続々と増え、7面まではいかないけど新しい筆箱を買ってもらう一大ブーム。

私? 誕生日、1月なんですよね(・・・遠い)。
でもハッキリ覚えていないけれど、たぶん喘息で長いこと休んでいて、やっぱり親として気持ちを和ませるためだったと思いますが、誕生日を待たずに3面開き(表裏と背に当たる部分が開閉する)を買ってもらいました。
今でも何となく覚えている。アイボリー地で猫の写真が入っていました。あの時、うれしかったなー。

で、蓋がたくさん何なのか?っていうと、「消しゴムは、あれ? ここじゃないし・・・、ここじゃなくて・・・。あ、ここに入れてたんだ〜」ってワザと言葉に出しながら、筆箱の蓋を開けて探すんです。
ええ、それだけのための、多機能とは言いがたい多蓋型筆箱ブーム。
それと蓋の数が少ないけど、その分「鉛筆削り内蔵」とか(汚れるから使わない)、「定規セット内蔵」とか(ちゃちで使いにくい)、どこかをクルっとまわすと虫眼鏡が出てくるとか(何に使う?)っていうなんちゃって多機能タイプも出てきました。
コジツケもここまで来ると次はもうトランスフォーマーになるしかないんじゃないのか?ってな。今はどうなんでしょうね。

さて、次の筆箱は5年生の中頃。小学生の文房具は耐久年数が短い。
そりゃ小学生だもん。嬉しくって意味なくパカパカパカパカ開けるからマグネットの消耗が早い上、角の部分が切れて中の台紙やスポンジが見えてくるんです。
えー、次は筆箱じゃありません。
「カンペン」
缶で出来ているカンペンケース。もちろん1面。あ、2面もアリだったかな。私は、深めで中にトレーが入って2段になっているタイプを使っていました。
4年までは誰もが何面も開くゴツゴツなのを使っていましたが、「たくさん持つよりも少ない量をシンプルに持つ」っていうのがカッコヨイ時代に突入します。
私が通っていた小学校では5年くらいから、「ランドセルではなく手提げバッグ」「荷物が少ない日は手提げバッグ」が一般的になり、それにあわせて筆箱も小さくなったわけ。
鉛筆に消しゴムに数本のカラーペン、そんだけなんだから。第一、何面も開く筆箱にずらりと並べるほどの文房具、誰も持ってないからね。
それに、中学年までは「無言の禁止」だったロケットペンシルやシャーペンなどが高学年で解禁になって、複数本数を持つ必要がなくなったんです。

4年生くらいまで使っていた出所不明なイラストや東映東宝まんがまつり系ではなく、サンリオやスヌーピーやディズニーなど、好みのこだわりキャラのを使うようになってきます。
学年があがってお小遣いの金額が増えたことで親に頼まなくても少し貯めれば買えるし、友達同士でファンシーショップ(笑!)に買い物に行けるようになったっていうのも理由。
缶だと中身が動いた時にうるさいから、下に何かを敷くのがオシャレで、ほとんどの女子が使っていたのは香り付きティッシュで開けたらいい香り〜(笑)。
私は、母のパート先で薄いウレタンスポンジが手に入ったので、それを大きさに切って使っていたと記憶しています。
あと、家庭科の授業が始まったことで、自分で作った布ケースとか、布ケースにフェルトのアップリケを縫い付けたりするのも一部で流行していました。

中学に入ってもカンペンだったような気がする。いや、プラケースをカラーゴムで留めていたような記憶もある。
大日本帝國万歳な軍隊式教育を基調としていた市立中学だけど、さすがに筆箱に関しての規定まではなかった。
あ、でも「華美にならないように」みたいなことは言われてたかも。
ガチガチな規定だらけで何をしてもしなくても殴られる学校だったから、もう何が規定だったか覚えてないや。

高校に入ってから、塩ビのファスナータイプが流行。
これには理由があって、私の高校は99%がチャリ通学で、カンペンだとガチャガチャガチャガチャうるさいため、塩ビか布ケースに買い換えざるを得ないんです。
そして再び、「大量のペンを持つ」時代に。カラーペン12色とか。ペンケースが膨れ上がってファスナーを閉めにくい状態なくらいペンを押し込むってのが流行。こっちの理由は不明。流行なんてそんなもんさ。
ちなみにこの時、黒い大きなナイロンバッグも流行。これは局地的ではなく全国的な状況で、クラスの女子のかなりが、クレージュとかシュウウエムラの黒くてデカイナイロンバッグを使っていました。
私? 高校はセカンドバッグで通学していました。ヤル気が全くなかったんで。

学校を卒業して会計事務所に入るにあたり(客先に行くこともあるので)、革のちょっと良いケースを買い、その後、添乗員になってからも使っていました。
が、邪魔でお蔵入り。バッグのペン差しに何本か差していたくらい。
今は、学校に行く時は、日本の百均で買った塩ビのB5サイズファスナーケースを使ってます。電卓も入るし、半透明で一番使いやすい。

ほとんどがイスラエルで買った筆記具。蛍光ペン以外は日本のメーカーのを使っています


◎今日の東宝まんがまつり
開始から46秒で涙腺決壊。

さらに、こっちは15秒で床上浸水。
posted by Heshbonit at 14:00| ノスタルジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月25日

バスツアーに行こう

添乗員なる職業をしていたのは、20代の時。
専門学校を卒業して就職した会計事務所を辞めて、ある国に2週間ほど旅行に行ったことで何かに開眼し、「旅行関係の仕事の説明会」というものに行ったら、それが添乗員の登録説明会だった、と。
初めは、大手子会社に所属し、地元にある中堅旅行会社に鞍替えし、海外添乗に憧れて超大手に所属して二股かけたものの、結局、中堅に戻った、と。
以前も書きました。そんなです。

さて。
添乗員の仕事にも、ランキングがあります。
一般的には、「海外旅行>国内ツアー」ですが、その国内の同じ募集ツアーでも、「航空機>新幹線・列車>バスツアー」というヒエラルキー。
もちろん、細分すればもっともっとランキングが細かく分かれますが、下っ端はバスツアーから初めて、だんだんとランクを上げていくわけです。
私が最終的に落ち着いたのは、この「地元発着バスツアー」です。

なぜ海外>国内なのかは簡単です。
「語学が出来る人だろうから」「海外旅行の方が大変だろうから」
外国にお客様をお連れして、あれこれ走り回って、到着してから列車やバスに乗って、国から国へと、言葉も違うし・・・。確かにそうですね。
国内だって、航空機や列車を使うほうが大変だろう・・・。ま、そうでしょう。到着してからさらにバスに乗ってバスツアーになりますから。
超大手では、「海外ツアー、特にヨーロッパツアーに出てこそようやく一人前の添乗員。国内なんて下っ端がやること。ましてやバスツアーや日帰りなんて・・・」というのが常識でしたが、私は強い疑問を抱いていました。

地元発着バスツアーってそんなにラクなんでしょうか?
とんでもない。地元発着バスツアーには、海外や国内航空機・列車ツアーではまず有り得ない、『怖さ』があるのです。

海外旅行に行くのは誰しも多少の不安があります。いくら添乗員付きのツアーとは言っても、自分になんらかの支障がある人は申し込む時点で、「私は持病があって」「海外旅行は初めてで・・・」という自己申告を必ずします。
旅行会社側が、「お客様でしたら、こちらのツアーのほうが行程が楽ですよ」とアドバイスをすることもあるし、また、状況によっては、航空会社側が「医師の診断書」を求める場合もあります。
国内の航空機・船舶・列車ツアーにしてもそうです。いくら国内だからとは言っても、不安がある人は申し込み時に旅行会社に相談する人が多いです。

さて、地元バスツアーとはなんでしょうか?
新聞折り込み広告なんかにありますよね。

「K温泉1泊2日バスの旅。K温泉旅館宿泊(予定)。全食事付き。
 出発地:A駅西口→B駅○○ストア前→C駅XX銀行前→D駅中央広場。
 地元から添乗員が同行いたします。お1人様9800円より」

「ねぇ、皆で温泉ツアーでも行かない?」@パート先昼休み
「お父さん、温泉行きましょうよ。A駅から乗れるんですって」@熟年夫婦
「今年の夏休みはツアーでいいか。去年は渋滞でメシ食う場所もなくてもうあれはコリゴリだ。バスツアーで全部込みならラクだろ」@5人家族子供含む
「おじいちゃん、たまには旅行に行きましょうよ。旅行会社の人がついてるから安心だし、バスに座ってれば温泉に行けるんだし、ご飯も付いてるし」@・・・?

そこで、折込広告の電話番号に連絡をし、希望日と参加人数、代表者の名前住所電話番号を伝える。ツアー料金の払い込みが確認されたら参加OK。参加する全員の名前や住所なんて聞きません。年齢を聞くなんてもっての外です。
飛行機や船舶の場合は、国内旅行でも搭乗者の姓名や年齢を全て抑えますが、バスにはそんなものはありません。座っていれば着く・誰でも乗れる。
だから、「あの、本当に大丈夫ですか?」っていう健康状態の人でも気軽に参加できる。それが地元バスツアーの醍醐味。

一般的に海外ツアーというのは、自力で問題なく動ける健康な人が参加し、海外旅行保険にも入っていますが、地元バスツアーとなると、老若男女どんな人でも受け入れる状態になっている。
だから、一体どんな人が来るか誰も分からないんです。あな恐ろしや。

ツアー前日に最終名簿を受け取って旅行会社で準備をします。
名簿には、代表者の氏名住所と人数が書かれています。たとえば、「凸山凹子2名」とあったら、凸山さんは2人組だけれど、同行者が男か女か、家族なのか友達なのか何も分かりませんし、こちらも特に聞きません。

添乗員は凸山さんに電話し、「凸山さまは、バス乗車はA駅からですね。バスは8時に出発いたしますので、10分前にはお越し下さいますようお願いします。お連れの方にもその旨をお伝え下さいませ」と挨拶をする。
この時点で、「実は私は・・・」と相談してくれればまだマシ。
たとえば、「足が弱いので昇降口近くがいい」と言われれば、優先的にバス座席を前のほうにします(国内バスツアーの座席は添乗員が事前に指定します)。
しかもね、前日の確認電話でそういってくれる人って、ワリと平気だったりするんですよ。バスツアー慣れしているから、事前に添乗員に自己申告をしておく、ということも知っているわけですね。

しかし、当日になって、「バス席を前に」って言われても出来ないんです。
前日準備時点で、席割りを作ってバスの入口に貼っているものを、当日に「私は前がいい」って言われて、作りかえるなんて出来ません。1泊なら、翌日の席替えしますが、日帰りツアーでは乗ったら乗りっぱなしですから。

さて、これを踏まえて、いくつか思い出してみました。

長くなるので一旦切ります。(コメントは下にまとめてお願いします)
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バスツアーに行こう・・・つづき

それでは過去を振り返ってみます。

事例1:老人
これは仕方ないです。週末ツアーだと家族連れや夫婦も多いですが、平日ツアーの場合は、どうしても定年後で時間がある人が多くなる。
「バスツアー=(中)高年ツアー」と言っても過言ではない。
健脚老人は、海外ツアーにも元気に来るでしょう。
でも、P病の方や、要介護に近い方が来るのはバスツアーくらいです。
これが大変。さすがに車椅子に乗って来る方はいませんが、でもホテルに到着してから、ホテルの貸し出し車椅子を借りたことがあります。

たとえば、長野の温泉ツアーで「温泉に入る猿を見る」というのが行程に入っていた時。何をどうしたか、普通に募集したツアーなのですが、歩くのにすっごい時間がかかるお年寄りが圧倒だったことがありました。
あそこね、バスを降りてから猿温泉まで、結構な距離を歩くんです。
猿が温泉に入るくらいだから冬。道の両脇には雪が積もっているし、霙っぽい雨も降ってくるし、足元グチャグチャ。「今日の客層で猿温泉はムリじゃないの?」って思ったけど、よほどの理由がなければ、キャンセルできません。
バス車内で、「すごく歩きますからね」と念を押し、確か数名は残ったんですが、大半が来ました。ま、そりゃ見たいでしょう。行程に入っているんですから。
でも、苦労してかなりの距離を歩いて到着した所で見るのは、「温泉に入る猿」ですからね。で、また苦労して歩いてバスに戻る、と。

事例2:老人その2
この猿温泉の時、私を気に入ってくれたお客様が、ある地元の会に所属しているそうで、別の温泉ツアーを丸ごと貸しきり、私を指名してきました。
ある日、「heshさん、貸切の指名が入ったから、来月X日の2泊3日、必ずよろしく」と上司に言われました。指名を受けると、ちょっと嬉しいんですよ。

「X寿会」
もう、「寿」が入っている時点で、それが何か想像が付きますね。ま、初めから全員が老人と分かっているだけに、ラクなんです。心構えが違うから。
私が懇意にしているバス会社のドライバーさんとガイドさんを指名してもらい、これは楽しかった記憶があります。(ただし、私に指名された2人は「なんでお前、老人会ツアーに俺たちを!」と怒ってましたが・・・)。
ま、バスドライバーもガイドさんも、添乗員なんかよりもよっぽど慣れていますから。考えてみたら、彼らの仕事の方が大変ですよ。

事例3:要介護
何度かありました。身体の要介護の方と、精神的な方・・・。
いくら家族が付き添っているとは言っても、事前申告なしはキツイ・・・。
事前に言ったら断られると思われたのかもしれませんが、
私はともかく、乗り合わせたほかのお客様も大変でした・・・。

事例4:オバチャングループガチンコ
まず普通、オバチャングループ4人でもちょっと心構えが必要なんですけど、オバチャン8人組が2つ重なったことがありました。
それ以外のお客様が全員普通の夫婦とか友達同士だったりするんですが、まぁその16人がうるさいことうるさいこと。強烈です。
あ、そういえば、「女性6人組」が高校の同級生だったことがありました。
高校時代は、非常に存在感の薄い地味すぎる生徒だったので、豹変ぶりに驚かれまして。ま、昔を知られているだけに、こっちもかなりやりにくかったです。

事例5:社員旅行でツアー利用
これがまたすごいんだ。
20人以下の小規模の会社が、慰安旅行でツアーに申し込んでくるの。
全国規模の中堅旅行会社とはいえ、支店主催の地元発着バスだから、地元地域の小さな事務所や商店との共存も必要ということなのでしょうか。
幹事にしてもラクですよね。添乗員が全部やってくれるんだから。
20人以上だと、「中型バスでツアー貸切扱い」にするけれど、20人以下だと上でも書いたけれど、「残りの人数は一般参加のお客様」になります。

夜は別の宴会場を頼んでいるからともかく、行きのバスから大騒ぎ。幹事には予め、「バス内では控えて」とは言っているんですが、聞きゃしないですよ。
募集ツアーのバス車内はカラオケ宴会をしないことになっているけど、御一行はすっかり出来上がっちゃってるから。放っておくと、勝手に歌い始めかねない。

こういう時、添乗員ができることは?
「その中に入り込む」
ヨッパライに触られようがなんだろうが、私本人がコンパニオンになってしまい、ツアーをジャマしないように、あまり騒がないようにコントロールする。
もちろん後で、他のお客様には平謝りです。大体分かってもらえますけどね。「添乗員さんって、本当に大変な仕事なのね」と。

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超大手を辞めて、中堅会社に戻ってからは、他の添乗員が嫌がるハイキング・トレッキングツアーや長距離の夜行バス(どちらもバスガイドなし)ばかりを好き好んでやっていたので、他の人に比べたらそういったトラブルは少なかったのではないかとは思うけど、でもまぁ、ホントにいろんなことがありました。(・・・っていうか、そういうのがイヤで、宴会などの恐れがない山岳や夜行バスばかりを選んでいたんですが)。

でも、地元の旅行会社だから何にしてもラクだし(成田発着じゃないですから)、顔見知りになる人も多く、今考えれば楽しい記憶ばかりです。

過去を振り返って、「あの時こうしていれば・・・」と思うことが沢山ある。
「推薦で銀行に入っていれば」とか「会計事務所を辞めなければ」とは思うものの、「でもやっぱり、添乗員はやってよかった」と思うのです。

願わくばいつか、「イ国に来てよかった」と思えるようになりたい。
posted by Heshbonit at 18:00| ノスタルジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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