2009年12月05日

制限空間に存る穏やかな波

日本に一時帰国していた時、
「ああどうしてこう日本人って優しいんだろう」としみじみ思った。

10年前、働いていた会社でのムチャクチャな状態に耐えに耐えまくって限界に達し、日本にいることがどうにもガマンならなくなって出た時には、それを何とも思わなかったのに。
麻痺すると人の優しさを何とも思わなくなり、反対にそれに飢えると、本当に取るに足りない下らないことでも、涙が出るほど嬉しく感じるんだろうか。

実際、人に嫌われることが多い仕事をしている。
生産しなければ営業しなければ人様に頭も下げず、それでお金の勘定ばかりし、「これが足りません」「なんですかこの請求書は」と追求するばかり。どこでも、経理なんて仕事は、嫌われるのだ。
その上、村の役場。大なり小なり極小なり、役場ってのは感謝されない。
そしてその上さらに、この11月から引き継いだ仕事は、本当に小さなミスが大事になり、いとも簡単に敵を作れる、とても特殊な業務。

職場以外で人と会話することもない。田舎過ぎて日本人がほとんどいないし、現地人との交流は自分から避けている。結果、10年住んでも、誰も知らない。
こんな性格ではなかった。人と話すのが大好きだった。だが、こうしてPCに向かって、ほとんど誰にも読まれないブログを書くことが日常と化してしまった。
孤独には馴れた。馴れるものではないのは分かっているが、受け入れるしかない。

数年前の「世にも奇妙な物語」に、「13番目の客」というドラマがあった。
不思議な床屋に入った主人公はその店から出られなくなる。床屋のスタッフは12人。主人公同様に客として来た人ばかりで、1人入ると1人抜けていく。
ドラマの主旨とは別だが、大杉漣が説明したセリフがとっても印象的だった。

新しい生活に入った時、人間が受ける経験の段階がある。
 ◆その1=始めは全てが新鮮で好奇心旺盛である。
 ◆その2=以前の環境との違いや上手く行かないことに不満が起きる
 ◆その3=自分の後から来た者へ知ったかぶりをする
 ◆その4=真に文化を理解し、本当の『住人』になる

ストーリーでは5ステージ目があり、それを明かさずに終わりましたが、いやいや、この4段階、ものすごく上手く言い当てているなと。

異国では、物珍しさでガイジンに優しくしてくれる。
そしてその優しさを、「この国の人は優しい」と勘違いしてしまう。
これは、イスラエルに限ったことではない。海外旅行に行って誰もが感じることだろう。「何て優しい人ばかりの国なんだろう!」と。

だが長く住むと、ガイジンがガイジンでなくなってくる。
いや、れっきとしたガイジンとして扱われるのだが、初めのガイジンではない。初めのガイジンは客だったが、もう客ではなく、住人なのだ。
もちろん住民とは言っても、生粋の国民とは違う扱いを受けるが、やはり、国籍でも民族でもない、人間性の問題が際立って出てくる。

もちろん分かっている。私の人間性には「重篤な欠陥」がある。
両親はきちんと育ててくれたが、その後の生き方で完全に捻くれた。
直そうと思ったこともあったが、ムリなので諦めている。
もうこうやって来たものを、今さら変わるものではない。

全ては自分が選んだことなのだからと思って生活していたが、日本で触れた多くの優しさは、自分の外見も言語も日本人だからこそ得られるものであった。

今の生活は、ドライでいい。
シガラミのようなものには触れない生活している。もっとも、役場で働いている以上は全てを避けて通れないが、面倒なところは、「ガイジンという印籠」を使ってシャットアウトしている。
それが上手くやっていく術なのだ。もちろんそれは、他方で受けられるかもしれない人との交流を断絶する諸刃の剣でもあるが。
もしも、同邦人が一人もいない国で人間関係を上手くやれる人がいるとしたら、人間的にパーフェクトな人か、あるいは、確固たる自分というものが完全にないか、そのどちらかだろう。


戻ってきて1ヶ月が経過し、忙しい中でいろんなことがあって、分かった。
「優しさ」というのは、与える側と受ける側の【波長】が合って、初めてそれが実行され、「優しい」と感じるものなのだ、と。

前述の「ガイジンだから受ける優しさ」は、実は取るに足らないものが多い。
だがガイジンは、「ガイジンの私にも優しくしてくれた=だから優しい国」と勘違いを起こす。実はそれはごく当たり前なことが多い。
たとえば、レディーファーストだったり、席を譲ってくれたり、その程度。

日本人である私が、この国の人に「日本人として」優しく出来るか?
ムリだ。
この国の人は、いやこれはイスラエルだけでなく、中東全域に言えることかもしれないが、優しくすると、付け上がるのだ。
なんたって、この世で起きる現象全ては「神が決めた定め」だと思っているだけに、人間がどれだけ優しくしても、それは「自分が受けるべき当然の報い」だと思い、人間に感謝をすることはない。(注:宗教心が薄い人はこの傾向が低い)。
こちらが相手のためにひとつ何かをすると、それが当然だと思い、次回は二つを要求、その次は四つ。それが当たり前なんだと思いこまれてしまう。

仕事もそう。
相手によかれと思ってやると、「あ、Heshbonitがそれやるのね。じゃ、次からそれでヨロシク」とロクに感謝もされず、仕事が増えるだけ。
「あの人がこうしてくれたから、私はこうしよう」「ならば私はこれをやろう。そうすればもっと上手く行くだろう」という助け合いの精神はほぼないと言っていい。幸いながら、私の職場の先輩部員はいろいろ気を回してやってくれるが、彼女のような人は本当に稀である。

日本で「日本人は優しい」としみじみ感じたのは、日常では忘れ去ったごくごく当たり前の日本人ならではの優しさを(...その一部は日本の常識と化しているものもある)、たった短期間に一気に受けたせいだ。

たとえば。
ある店から出ようとしたら、雨が降っていた。面倒だからそのまま行ってしまえと外に出ようとしたら、店の人がビニール傘を貸してくれた。
日本人がカサを貸すのは、それが「返ってくる」という相手への信頼があるからである。もちろん、安物ですから返してくださらなくていいですよ、と口では言う。これは、相手に「返さなければならない」というプレッシャーを与えないためと、万が一返ってこなかった時にガッカリしないためでもある。
傘を借りた側は、それが廉価な物であろうがなんだろうが、「せっかく貸してくれた相手の期待を裏切りたくない」と相手を思い、且つ、「返さなかったことに罪悪感を感じたくない」という己が信用のために、「ありがとうございました」と綺麗に折りたたんで返す。

これが中東なら? 
100パーセント、傘は返ってこない。
それどころか、「あの店に雨の日に行くと、傘をタダでくれる」となる。
貸す側も、それを察して貸さないのだ。

いうなれば、日本も中東もそれぞれの間では波長が合っている。
波長が合わないと優しさを感じることが出来ず、当然ながら、誰もそれを与えようとはしない。
中東の人間が冷たいわけではない。ただ波長が合わないから、「これが日本人ならこうしてくれるのに」と思ったり、相手がしたことを優しさとは感じなかったりする。それだけのことなのだ。

これは、日本人同士でも言えるだろう。
地方出身者が都会に来ると、「誰も相手にしてくれない・冷たい」と嘆く。
都会育ちが田舎に行くと、「プライベートに入り込みすぎ!」と辟易する。
都心部には、「見てみぬフリが優しさ」という流儀がある。
対し、田舎では「根掘り葉掘り聞くことが優しさ」。見事に真逆なのだ。
「XX県の人は冷たい」なんていうのも、波長の問題だろう。
XX県民が冷たいわけではない。自分が波長が合わない場所いるせいだ。

「優しさ」とは、「相手を思いやる心」だけではない。
受け手が、その相手の思いを汲むことで初めて「優しさ」となる。
だから、その相手が要求していることが理解できなかったり、自分と合わない場合は、どうしようにも相手を思うことは出来ない。勝手な思い込みで下手な動きをすると、大きなお世話になり、図々しさになり、単なる勇み足で終わる。

負の感情は伝染性が強く世界共通であるが、優しさは地域性が強い。
負を正常値にするためには優しさが必須なのだが、きわめて地域的な波長であるがため、孤立した場所においてはなかなかない合わせるのが難しい。

結果、それに馴れるか、妥協するしかない。
かくして、孤立に理由をつけ、自分を納得させて、騙し騙し生きている。
           
posted by Heshbonit at 16:00| 真面目なたわごと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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